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佐藤優書店

佐藤優の全書籍を紹介します

佐藤優『神学の思考』(平凡社) 2015/01/15

  •  「ウェブ平凡」連載の「日本人のためのキリスト教神学入門」(2012年11月から2014年3月分)を加筆修正したものを収録している。
  • 本書発売後も連載は継続しており、前編という位置付けにはなるが、神学の基礎的な考え方は習得できる構成となっている。
  • 佐藤氏の執筆活動におけるバックグラウンドの一つとなっているキリスト教神学について、自身が体系的に解説している。
神学の思考

神学の思考

 
神学の思考

神学の思考

 

 

引用・参考文献

 神学の定義について 、現在 、英語圏で標準的なプロテスタント神学入門に用いられているアリスタ ー ・ E ・マクグラスキリスト教神学入門 』には 、こう記されています 。

 「神学(theology)」という言葉は、すぐに二つのギリシア語に分けられる。つまり、theos(神)とlogos(言葉)である。「神学」は、従って、神についての議論であって、それは「生物学(biology)」が生命(bios)についての議論であるのと、ほとんど変わらない。(アリスター・E・マクグラス[神代真砂実訳]『キリスト教神学入門』教文館、2002年、195頁)

キリスト教神学入門

キリスト教神学入門

 

 

 それですから、キリスト教を単なる現象として見た場合、さまざまなグループが主題を恣意的に構成した言説が並立しているに過ぎず、キリスト教全体に通底する論理を導き出すことは不可能です。こういう視座からキリスト教を論じたのが、橋爪大三郎大澤真幸『ふしぎなキリスト教』です。現代の欧米文明に埋め込まれたキリスト教の伝統を知るために、この本はとても優れています。

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

 
ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

ふしぎなキリスト教 (講談社現代新書)

 

 

 バルトは日本的キリスト教に一定の肯定的評価を与えますが、日本人が独自の土着的神学を構築することには批判的です。バルトが晩年の一九六二年に公刊した『福音主義神学入門』という講義録の邦訳書には、バルトによる「日本語版の序文」が付されており、こう警告しています。

福音主義神学入門 (新教セミナーブック)

福音主義神学入門 (新教セミナーブック)

  • 作者: カールバルト,Karl Barth,加藤常昭
  • 出版社/メーカー: 新教出版社
  • 発売日: 2003/09
  • メディア: 単行本
  • 購入: 1人 クリック: 7回
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 科学的無神論キリスト教へのアプローチは、西側の宗教社会学に似ていました。ソ連崩壊後、この学科は宗教史・宗教哲学科に改組され、一九九二年九月から九五年二月まで、私もプロテスタント神学について教鞭をとりました。このときの経験をもとに私は『自壊する帝国』(新潮文庫)と『甦るロシア帝国』(文春文庫)を書きました。科学的無神論を掲げていたソ連の人々の思考の根本にロシア正教があることを私は深く認識しました。

自壊する帝国 (新潮文庫)

自壊する帝国 (新潮文庫)

 
甦るロシア帝国 (文春文庫)

甦るロシア帝国 (文春文庫)

 

 

  神学的思考の特質をカール・バルトの『教会教義学』に則して、考えてみましょう。かなりわかりにくいテキストですが付き合ってください。日本語への翻訳は正確で、しっかりしています。バルトのテキスト自体が、日常的な言語とも、哲学論文とも異なった言葉と文体によって記されているので、わかりにくいのです。逆に言うならば、『教会教義学』を自力で読み解くことができるようになれば、それ以外の神学書も理解できるようになるということです。

教会教義学 (〔第1巻第1分冊第1部〕)

教会教義学 (〔第1巻第1分冊第1部〕)

 

 

 しかし、この動的な、生成する神という理解が、日本人にはなかなかとらえることができないのです。一種の文化障壁があって、それが日本における神学的恣意に厄介な問題をもたらしています。優れた思想家であっても、キリスト教の神の存在が生成においてあるという現実をとらえることができません。例えば、丸山眞男は、「歴史意識の『古層』」(初出、1972年)という論文において次のように述べています。

忠誠と反逆―転形期日本の精神史的位相 (ちくま学芸文庫)

忠誠と反逆―転形期日本の精神史的位相 (ちくま学芸文庫)

 

 

 内在的三一論も経綸的三一論も、日本的な文化の文脈ではわかりにくい概念です。そこで別のもっとわかりやすい切り口から、神について考えてみたいと思います。それは、人間が神と出会う瞬間、神学の業界用語で言うならば召命です。この問題に正面から取り組んだのが、チェコプロテスタント神学者ヨゼフ・ルクル・フロマートカです。フロマートカが著した唯一の教義学書『人間への途上にある福音』(Evangeliumocestězačlověkem,Kalich/Praha,1958)は、チェコ文学者の平野清美先生とともに私が翻訳を行い、『人間への途上にある福音 キリスト教信仰論』として、二〇一四年に新教出版社より刊行しました。

人間への途上にある福音

人間への途上にある福音

 

 

 『人間への途上にある福音』は、奇妙な著述スタイルの本です。脚註が一切ありません。アカデミズムで通常用いられる形式を無視してこの本は書かれています。もっともアーネスト・ゲルナーの民族問題に関する名著『民族とナショナリズム』も学術書ですが、一切、脚註がないので、高度な内容の学術書でも、脚註がない著述スタイルも極めて稀にあります。

民族とナショナリズム

民族とナショナリズム

 

 

 フロマートカの伝記的記述や人柄に関するエピソードの紹介などは、本書では行いません。私が訳した『J・L・フロマートカ自伝 なぜ私は生きているか』(新教出版社、1997年、オンデマンド版で入手可能)の解説にフロマートカの伝記を付したので、この本を読んでいただくと、フロマートカ神学の背景事情に関する理解が深まります。

OD>なぜ私は生きているか―J・L・フロマートカ自伝

OD>なぜ私は生きているか―J・L・フロマートカ自伝

 

 

 また、私が二〇一二年に刊行した『同志社大学神学部』(光文社)もフロマートカ神学に関する入門書の役割を兼ねているので、是非、目を通してほしいと思います。

 

 現代神学を勉強するときにカール・バルトの『ローマ書講解』は必読書です。この本を読んでいない人は、神学について語る資格がないと言ってもいいくらいです。平凡社ライブラリーから詳細な註がついたわかりやすい翻訳が出ているので、是非入手して読んでください。

ローマ書講解〈上〉 (平凡社ライブラリー)

ローマ書講解〈上〉 (平凡社ライブラリー)

 
ローマ書講解 (下) (平凡社ライブラリー (401))

ローマ書講解 (下) (平凡社ライブラリー (401))

 

 

 モルトマンの言う「悪魔的な力」を、文学によって見事に表現しているのが村上春樹氏です。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』では、神が退去したこの世界で、悪魔が確実に活動していることを描いています。高校時代の五人の親友共同体から、主人公の多崎つくるは二〇歳のときに突然、追放されます。一六年を経て、その理由を探るために、つくるは元親友を訪ねる旅に出ます。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年 (文春文庫)
 

 

 もっともプロテスタント神学も、「神の似姿」と「神のかたち」の区別を重視します。この点については、スイスのプロテスタント神学者エミール・ブルンナー(EmilBrunner,1889–1966)の業績が重要です。ブルンナーは、主著の『教義学』で、「神のかたち」を理性と結びつけずに、「創世記」一章二六節における「ツェーレム」と「ドゥムト」というヘブライ語の差異に注目します。

教義学〈1〉神についての教説 (ブルンナー著作集)

教義学〈1〉神についての教説 (ブルンナー著作集)

 

 

 同時に重要なのは、観念論とプロテスタント神学を同一視しないことです。シュライエルマッハーが『宗教論』において、宗教の本質を「直感と感情」と規定し直してから、神は形而上的天から人間の心の中に移動しました。人間の心がどこにあるかを空間的に示すことはできません。そのため神と人間の心理作用が混同されてしまう危険が生じます。そこから、観念論の一部に、人間に対する支配権は心の中の神に属するが、被造物に対する支配権は人間に属するという仕分けが生じてきます。

宗教論 (岩波文庫 青 628-1)

宗教論 (岩波文庫 青 628-1)

 

 

 フランスの歴史人口学者で、フランス国立人口統計学研究所の幹部であるエマニュエル・トッドは、『デモクラシー以後』で、ナルシシズムが政治エリートを席捲していることについて警鐘を鳴らし、こう指摘しています。

デモクラシー以後 〔協調的「保護主義」の提唱〕

デモクラシー以後 〔協調的「保護主義」の提唱〕

 

 

 神と人間の人格的な交わりから想起してマルティン・ブーバー(MartinBuber,1878–1965)が書いた『我と汝』(岩波文庫、1979年)という本があります。神はあまりにも偉大なために、人間の力では、神と人間の関係を「我と汝」にすることはできません。神の人間に対する圧倒的な恩恵から、「我と汝」になるとブーバーは考えます。ここから類比して、ブーバーは人間と人間の間には「我」と「それ」、「我」と「汝」という関係しかなく、「こいつを相手にひと儲けしてやろう」という発想は人間をモノとして見ているので「我」と「それ」になってしまう、人間と人間との親密な関係は「我」と「汝」であるべきだと論じました。

我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1)

我と汝・対話 (岩波文庫 青 655-1)

 

 

 このブーバーの人間観に対してアメリカ神学は反論します。世俗化論で有名なハーヴェイ・コックス(HarveyCox,1929–)は、すべての人間関係を「我」と「汝」にしたら窮屈でしょうがないから、「我」と「汝」の関係は数人でよく、それ以外の関係は「我」と「あなた」の関係でいいと主張します。コックスは一九六〇年に書いた『世俗都市』(新教出版社、1967年)の中で、都市では「我」と「あなた」の関係が担保されると論じます。

世俗都市 (1967年)

世俗都市 (1967年)

 

 

 マルクスが『資本論』で解明した「労働力の商品化」という概念は、現在も資本主義社会を分析するツールとして有効です。しかし、現在の主流派経済学は、まったく取り上げません。また通俗的なマルクス主義解説も『資本論』の論理を無視しています。しかし、「労働力の商品化」という概念を抜きにして、資本主義社会の内在的論理をとらえることは不可能です。この点について関心を持たれる読者は、鎌倉孝夫佐藤優『はじめてのマルクス』(金曜日、2013年)、拙著『いま生きる「資本論」』(新潮社、2014年)に是非、目を通してみてください。議論の展開が本書によく似ていることに気づくと思います。

資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)

資本論 1 (岩波文庫 白 125-1)

 
はじめてのマルクス

はじめてのマルクス

 
いま生きる「資本論」

いま生きる「資本論」

 

 

 柄谷氏は、柳田国男を読み解く作業を通じて、目には見えないが、確実に存在する事柄をとらえる作業に成功しています。柄谷氏の言説は、『遊動論――柳田国男と山人』において、わかりやすく展開されています。
 パウロがイエスの言説を解釈してキリスト教という新しい宗教をつくり、マルクスリカードウの『経済学および課税の原理』を解釈することを通じて『資本論』を生み出したことを想起させるような、柄谷思想の集大成です。この方法をキリスト論に応用することが可能です。

遊動論 柳田国男と山人 (文春新書)

遊動論 柳田国男と山人 (文春新書)

 
経済学および課税の原理〈上巻〉 (岩波文庫)

経済学および課税の原理〈上巻〉 (岩波文庫)

 
経済学および課税の原理 (下巻) (岩波文庫)

経済学および課税の原理 (下巻) (岩波文庫)

 

 

  歴史的な人物としてのイエスを実証的に探究することに対する関心は一八世紀の啓蒙主義とともに始まりました。史的イエスの探究は近代的な出来事なのです。近代より前の人間は、イエスが救済主であることを信じることによって、自らの救済を求めました。イエスがどういう一生を送ったかについての客観的なデータに当時の人々は関心を持たなかったのです。二〇世紀の初頭まで、史的イエスの探究は続けられます。ダーフィト・シュトラウス『イエスの生涯』(1835年)、エルネスト・ルナン『イエス伝』(1863年)などが有名です。

イエスの生涯

イエスの生涯

 

 

 史的イエス研究の全体像をまとめたのがアルベルト・シュヴァイツァーです。シュヴァイツァーの『イエス伝研究史』(1906年)によって、史的イエスの探究が不可能であることが露呈しました。

イエス伝研究史

イエス伝研究史

 

 

 二〇世紀になると様式史研究が主流になります。福音書に記されているイエスの生涯の時間的、空間的枠組みについて、イエス伝研究では史実性を認めます。これに対して様式史研究は史実性を認めず、福音書の著者が入手したイエスに関する伝承を、史実とはまったく別の利害関心から編集したものであることを証明します。クロッサンが行った謎解きも基本的には、この様式史研究の成果を踏まえています。ここで重要になるのがルドルフ・ブルトマンの『共観福音書伝承史』(1921年)です。ブルトマンは、福音書に記された伝承についても、生前のイエスに遡ることはできないと考えました。

ブルトマン著作集〈1〉共観福音書伝承史 (1983年)

ブルトマン著作集〈1〉共観福音書伝承史 (1983年)

 

 

 私たち一人ひとりの心の中で、人生のどこかの局面で、神の前に呼び出されることがある。筆者の五四年の人生を振り返っても、同志社大学神学部に進学することを決めたとき、同大学院神学研究科を修了した後、教会教職者(牧師)への道を選ばずに外交官になったとき、一九九一年八月のソ連共産党守旧派によるクーデター事件のとき、一九九三年一〇月のモスクワ騒擾事件のとき、二〇〇二年五月に鈴木宗男事件に連座して東京地方検察庁特別捜査部に逮捕されたとき、そして二〇〇五年三月に新潮社から『国家の罠──外務省のラスプーチンと呼ばれて』を上梓し、作家生活に入ったとき、私は確かに神に呼び出された。そして、神が私に命じたとおりの選択をしたつもりである。

国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)

国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)

 

 (以上)

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